花を見て泣く老人

 東京旅行最後の夜、自殺した親友と新宿で飲んだ。自殺した親友というのは、音信不通となっていたために私が「自殺した」と解釈していた友達だ。本当に色々話した。

 話題の一つとして、今後の目標について話した。私の目標として話したこととその補足を書く。私の目標は「花を見て泣く老人」である。

 私は日々量産され続けるドラマやアニメなどを鑑賞した際に、恥ずかしいほどよく泣く。しかし、このような作品を観て泣くたび思うのは、この涙は私の心根から主体的に発せられたものなのだろうか、ということである。

 当然のことながらドラマ監督は人の泣かせ方を熟知している。人がどのような時に泣くかというパターンを知っているはずだ。プロデューサーもまたその涙が売れることを知っている。その人為的なパターンによって私は泣かされているのではないかという疑念。殴られたら痛い、所詮この類の感受なのではないか? 何かただの反射のような……。

 ある日、突如として私の中に現れた観念である「花を見て泣く老人」。この泣くという行為は、上記の泣くという状態とは明確に異なる主体的な行為だ。なぜなら、観念として私がそう取り決めたからである。そしてその主体性について、私はまだつかむことができていない。

 五流の「花を見て泣く老人」は、アスファルトに散った桜の花びらを見て泣く。しかし、それは私の目標ではない。その老人は、満開の桜の花びらが上でこぼれそうなほどに咲いて、まさに咲き誇っていたことを知っている。知っているからこそ、その失墜を泣くのである。私からしたら、それは安っぽいドラマで泣くのと変わらない。自然を勝手に解釈して泣いているだけだと思う。ソメイヨシノって人口樹な気もするし、もしそうなら余計に解釈でしかない。狡猾なドラマ監督が自分の中に住んでいることを確認するだけだ。そんなことはみんなわかっていますよね。

 四流の「花を見て泣く老人」は、その横のハルジオンを見て泣く。アスファルトに染みる水に慎ましく咲く花。ビンボウグサと呼ばれることに甘んずる謙虚な花。ソメイヨシノが認め知られる横で、誰にも視られることのない花。こういう風にハルジオンについて連想してみると、結局は五流と同じであることがわかる。五流の解釈をそのまま逆にしてみただけだ。自分の好きにストーリーを作って、その解釈をする。そんなものは自己防衛反応に過ぎない。解釈した方が生きやすいから、生きる意味を考え出した方が生きやすいから、そうしているだけであって、泣いた方が楽だから泣いてんだろ!

 次の三流二流一流は今後見つけていこうと思っている。五流から書き始めてみたが、本当は五流から始まる保証はどこにもないので、あと百流ぐらい考えなきゃいけないのかもしれないし、いきなり一流になれるかもしれない。できることなら、いきなり一流の「花を見て泣く老人」になりたい!

 大江健三郎による小説の方法論を読んでいて、最近その方法論が実体験に結び付いた部分がある。私は以前から強迫性障害ぎみの症状、その内でも特に確認行為を実体験として持っている。この確認行為というのは、暖房を消していないかもしれないので一度帰宅する、というような行為のことで、この行為は一日に何度も行われる。この時に私の頭の中では次のようなことが起きている。

 まず、冷蔵庫を開け用が済んだら閉める、こんなことは当たり前のことだ。しかし、この当たり前のことが生活の中で次第に習慣化されてくると、冷蔵庫の中の食材を取り出す弾みで閉めるという行為までもが自動的に行われ、完全に無意識のうちに全て遂行される。完全に無意識下で行われているために、私はその状態については責任を取りたくない。責任という発明は、健全な自由意志が存在することを前提としたものであるはずだからだ。しかし、ガスの元栓の閉め忘れによって引き起こされた火事については、ほかならないこの私が責任を取らなければならない。そこで私は極端な不安を感じて家へと引き返す……。

 言語でも同じことが起こることを大江は書いている。会話やインターネットなどにおいて何の気なしに用いられている「日常・実用の言葉」はまさに習慣化され、自動化され、無意識化されている。家庭での会話は、ふつう、家族から発せられた問いかけに対して十分な吟味を経ることのない反射を積み重ねることによって成立する。家族とした会話はついさっきのことであっても、その具体な内容まで覚えている人は少ない。(私は、家庭での会話で会話の無意識化を許されなかった人が強迫性障害ぎみの確認行為を行う傾向があると予想している。)

 詩や小説はこのような「日常・実用の言葉」の無意識から、ある手法を使い、意識上へと掬い出すことによって「文学表現の言葉」を紡いでいく。そのある手法というのは、まさに一種の確認行為なのではないか?

 しかしながら、私が繰り返す確認行為はあまりにも対処療法的で、無意識からの脱出方法としてはあまりにも効果が薄いことは、私がよく知っている。大江は、シクロフスキーが次のように示した定義を繰り返し引用する。

《そこで生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかす必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義をもたないのである。》

 「花を見て泣く老人」というのは、花を見ることによって主体的に涙を流す老人のことである。その主体性とは、無意識化された記号としての花を、意識上の確かな花へと引き上げる力なのではないか? もしそうだとしたら、その力は芸術によってもたらされることは、示されたとおりである。